ガンの告知がありまして

塾講師をしている私は夏がいちばん忙しい。夏期講習はあるし、もう年度後半の準備も始めなければいけないのだ。今までと同様に教室まで1時間かけて電車通勤をしていたとしたら、いつもより早めに出て夜遅くに帰るという生活をしていたと思う。

まさか母が体調崩すなんて思ってもみなかったのだが、今までの塾は事業譲渡し、その年から自宅で仕事をするようになり、授業の時だけすぐそこの教室に出るという生活になっていた。よく母は無事だったとか大きな問題がなかったという時には「守られた」と言う。母が病気になっても私が家にいることが多くなったのは、私も本当に守られたと実感した。


お盆休みが明けて私は夏期講習に戻った。そこから1週間は今までと変わらない生活をしていたと思う。しかし母は「痛い」と口にするようになった。どうすればこの痛いのが治まるのか、あっち向いたりこっち向いたり座り方を変えたりと、少しでも痛みが和らぐようにと努力していた。しまいには「この痛いのとってくれたらもう死んでもいいんだけど」と言う。いやいやいやそういうわけにもいかんでしょう、というような会話もしていた。

8月27日(火)。母はまた弟とともに出かけた。検査結果を聞く面談の日だ。

私は既に覚悟をしていた。なんの覚悟かというと漠然と「母は大きな病気である」という覚悟だった。実際にはどんな病気でどのくらい進んでいるもので、そしてどのような治療をするのか。二人が帰ってくるまでそこまで考えることはなかった。

面談を終え母と弟が帰ってくる。弟は一言「あんまりいい状況じゃないね」。。。結果はこうだった。

結論から言うと病名はガン。そのなかでも「低分化ガン」と呼ばれる種類で、進行の早いものらしい。現状はすい臓にガン、肺にも影がある、胃の方も怪しい。つまりいろいろ転移をしてしまっている状況だった。ステージ4というやつ。最初にリンパ腫と言われた時の私の違和感は合っていた。血液の方でなく、やはり消化器系からの異常であったのだ。さらに、そこまでいろいろな箇所に異常が見られると、原発がどこなのかはわからない。わかるのは低分化ガンという種類だけで、原発がわからないこの状況だと「○○ガンです」という病名はつけられない。そういう状況なのでメスを入れる手術は難しい。治療するなら化学療法しかないことになる。

そして余命も宣告される。もしも○○が原発で治療をすれば2~3年、もしも○○が原発で治療をしなければ2~3ヶ月。例をあげ幅広く教えてくれた。

母は、弟である本家の叔父ががん治療をしている時、げっぞり痩せて弱々しくなっていった姿を見て「私はガンになっても治療はしない、自然に任せる」と言っていた。ずっとそれは変わっていない。私も弟もその方針は理解していた。つまりこの時点で、母の余命はあと数ヶ月と確定されてしまったのだ。

先生から告知があったとき、母も弟もどんな気持ちで聞いたのだろうか。そのショックは想像もつかない。二人が帰ってきて報告をしてもらった私はというと、ショックというより「本当にこういうことってあるんだ…」という気持ちだった。昔の百恵ちゃんの赤いシリーズとか、唐沢の白い巨塔とか、ドラマの中だけのことのように思っていたけど、自分にもこういう事が起きるんだなと。

想像だが、もしかすると母も弟も自分たちのことであって自分たちのことでないような、そんな状態で先生の話を聞いたのかも。私に報告してくれた時だって、みんないつものキッチンで話している雰囲気と全く変わりなかった。それぞれが覚悟をしていたからなのか、それともまだ自分たちのことでないような気分だったのか。

そこから、そのときを迎えるまでの時間はどのように生活をしていくのか母と弟と考え話し合った。今の私と母だけの生活は厳しいだろうと弟が気遣ってくれた。弟が自分の家に母を呼んで面倒を見るような話をしてくれたのだが、母はそれは望まなかった。今の家の今の自分の部屋にいたいと言う。それなら私の仕事をどうするか、弟とはどう連携するか、きちんと話していかなくてはいけない。

ちなみに病院の先生は、治療をするにしても「原発をはっきりさせないといけない」と言う。治療はしないと考えている母も、自分の死因が何ガンになるのか「原発を知りたい」と言う。方針は違っても求めるものは同じ。ここからもう少し、母の検査は続いていくのだった。

自分の死を受け入れた母は落ち着いていた。落ち着けば落ち着くほど、もうすぐ死ぬと言われたショックは大きくなっていっただろうと思うが、痛い痛いと言いながらも、なんと強い人だ!と感心するほどいつもと変わらぬ様子を見せていた。ま、いつもと変わらぬ様子を見せる努力をしていたんだろうな。気丈に振る舞うってやつ?

弟が帰って録画していた韓流ドラマを二人で観る。地上波で、知ってる人は知ってるだろう「ペントハウス」が始まっていた。パート2、パート3と先の長い長いドラマだ。残り数ヶ月と余命宣告された母が言った。

「あたし年越せないんだから、これ最終回まで見れないじゃん!」

そんな自虐的なことをちょっと面白そうに言う。「なんてことを言う!」と私もふざけてツッこむ。この時の母は明るい雰囲気にしようと頑張ったのか、辛かったけどその気持ちをフッ飛ばそうと思って頑張ったのか、亡くなった今それはわからない。


この余命宣告から26日後に母が亡くなる。1ヶ月も持たなかった。残念なことだ。でもこの26日間が母にとっても我々子供たちにとっても親戚軍団にとっても、それぞれの想いがギュっと凝縮された26日間となった。

まずはこのあと、生まれて初めての母と私と弟の三人の生活が始まる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました